2008年05月11日

「片づけられない老人たち」が育った「モノのない時代」

 GW中に片づけられない実家の惨状を目にする一方、近場お出かけの一つとして、保存展示されている古民家を見学する機会があり、図らずも「日本の住宅事情の変遷」を考えさせられることになりました。

 江戸時代から続くという旧家は、モノがなくがらーんと広い。現に人が住んでいないから、というのは当然なんだけど、食器にしろ衣服にしろ必要最低限しか所持していなかったことを考えると、やっぱりモノはほとんどない生活だったことが垣間見えます。
 右手南面の入り口を入ると土間で、厩(うまや)、竈(かまど)、台所になっています。家畜と一つ屋根の下で生活しているって、現代人の感覚からするとすごいセンスだよね(@_@;
 台所といったって、木製の小さな「流し」があるだけで、1日か2日分の水をためておける水桶が脇にあるきり。多種多様なキッチンツールも調理器具もない。
 土間の片隅には巨大な味噌樽があり、1年分作ってそこから消費したとか。さまざまな調味料や油、粉もなく、もちろん冷蔵庫も電子レンジもない。

 土間から上がると板の間で、囲炉裏が切られています。「ちゃぶ台を囲む家族」に「古きよき日本」を感じるのは実は幻想で、そのほんの少し前までは、日本人の9割を占める農村家庭は囲炉裏を囲んでいます。ソファもテレビもオーディオセットもありません。もちろん電話も新聞雑誌もリモコンもない。
 「食卓」はなく、個々人めいめいの「お膳」が使われていました一汁一菜ていどの質素な食生活だったと思われます。食器だって最低限。食器棚3本分の実家のように、ガラス製オードブル皿や木製サラダボウルセット、お造り専用小鉢や魚を形どった大皿など、普段使いには向かない多種多様の食器類で溢れかえることもありません。

 板の間の奥は畳敷きです。「結婚式、来客の際に用いられた」特別な(=ハレの)場だったようです。
 子供部屋も勉強机も本棚も、書斎もホビールームもありません。ベッドも健康器具もピアノもマッサージ椅子もありません。フランス人形もトロフィーもこけしもUFOキャッチャーでとってきたぬいぐるみも金閣寺のレプリカも「子供の作品」もありません。

 基本的に(よっぽどの格のおうちでなければ)箪笥もあまりなかったようです。普段使いの衣服は「行李(こうり)」に入れられていたようです。
 衣服の数も、回していくぎりぎりだったでしょう。夏物冬物の別もなく1年中着まわし、寒くなったら裏地をつけ、綿を入れ、重ね着するだけ。衣更えとは、衣を「取り替える」のではなく、衣を「改造する」ことだったのでは。

 東北地方の農家だった父の本家筋の親戚宅に、子供時代泊まったことがありますが、作りはほぼ同様です。囲炉裏だった場所は、そのまま掘りごたつになっていました。庭では牛と豚を飼っており、食用の鯉のいる池が掘られ、家族が消費する分の野菜を作る小さな畑のコーナーがありました。風呂場と便所は離れで、薪を積んでおく小屋と井戸がありました。
 夫実家の親戚の沖縄の農家も同じようで庭には鶏を飼っており、うちの近所にある別の保存旧家もそっくりで二階(というか屋根裏?)には蚕を飼っていました。日本全国津々浦々、形式は共通していたようです。
 父も母も、それに近い生活の子供時代を送ったはずです。少なくとも、調理器具も食器も衣類も家具も電気製品もほとんどなかったはず。衣服は基本的に家庭で作られ、捨てるモノなどほとんど出ない暮らしだったはずです。収納するモノも片づけるモノもないのです。

 ところが、家電製品が普及し、大量生産の安価な工業製品が供給され、子供を育てる基本スタイルも変わりました。食生活も変わり、レジャーも変わり、マスメディアの普及で今までなかったモノが生活の真ん中に進出してきました。スーパーマーケットが日用品を提供し、週末はデパートで「買い物を楽しむ」ライフスタイルが一般化しました。
 そんな生活様式の激変の中を、両親は生きてきました。想像すると…「モノとのお付き合い」はいかに難しい課題だったか、と思われるのです(@_@;
 両親より年上ながら、大原照子(しょうこ)さんなどは特殊な例外です。津々浦々に溢れる片づけられない老人たちは、みんなそんな背景を背負ってきたんじゃないかなあ。

 私は今は、「老人たちの家が片づかないのはどうしようもない」と考えるようになりました。一つは、もうオツムの柔軟性が失われているので、新しい事態を受け入れることがほとんど無理だと思われること。一つは、上記生まれ育ちを考えると、片づけることがいかに彼らの思考回路にとって難しい課題かと思われること。
 そしてもう一つは、彼ら老人たちが「モノだらけ」の生活にさしたる苦痛を感じていないことです。私は、モノだらけはとても苦痛でした(^^; その不快から逃れるためならなんでもする!くらいの深刻な悩みでした。でも、実家の両親を見ていると、「モノがありすぎて苦痛」という感覚はないようなのです。
 困ってないのに解決しようとするなんて、大きなお世話だよね(^^; 感謝されるどころか、鬱陶しがられ、「テリトリーを侵害した」的に睨まれ、挙句の果てに「モノを大切にしない人非人」「冷たい人間」として倫理的に劣った存在と貶められかねないんですから、面白くありません(^^# ホントお好きにモノに埋もれた人生送れば?!というのが正直なところです。
 あれ、何か妙に個人的怨恨を感じさせる論調になってしまいましたねA(^^;ほほほ

 大原照子さんが紹介した「モノが少なくて豊か」なヨーロピアン・ライフスタイルは、長い年月かけて培われた成熟社会の賜物だと思うのです。私の両親の世代は、文化の成長期で激変期。未熟や歪みは一杯で当然だと思うのです。
 私は生まれた時からモノが溢れていた、大量生産大量消費社会の、いわば第二世代。大量のモノの洪水と上手につきあう、最初の世代になるはずです。親の代は、無理です。別に、悪いことでも劣ったことでもなく、もう、そういう時代の中で生きてきたのだもの、仕方ないんだよ。
 親のことは忘れて自分の責任の範囲は勝手に快適にすればいいことだよね。どうせ一緒に暮らしてないしね。
 私は、親世代が捨ててきた、「何もないがらんとした古民家」的な暮らしに回帰したいと思っています(-_☆
posted by eribow at 11:46| Comment(2) | TrackBack(0) | そうじ理論 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
この記事へのコメント
モノがないのが当たり前の環境に、急にたくさんのモノが与えられたらどうしていいのかわからなくなってしまったのかも・・・(^_^;)

大昔は食べ物がいつでもある状態ではなかったから、食べ物が入ると貯蓄するようにできているのだそうです。
だから、現代人が食べ物を食べ過ぎると、消費しないでどんどん脂肪になってしまうのだとか・・・
家も同じかも、と思いました(^_^;)

親に対しては子供として色々思う所がありますよね。分かります(^_^;)
Posted by ひつじ at 2008年05月11日 21:40
>ひつじさん
>モノがないのが当たり前の環境に、急にたくさんのモノが与えられたらどうしていいのかわからなくなってしまったのかも・・・(^_^;)
ほんとほんとA(^^;

体には脂肪、家にはモノ!現代人の病ですよね…
決め手は「体質改善」と「そうじ」だ!?
Posted by eribow at 2008年05月15日 00:23

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